「やってあげた」じゃなく「やった」
見返りを求めないことが大事?
お盆という時期に大事にされるのは、「施す」という行為です。この「施す」とは、「布施」とも称され、相手のことを思いながら行う行動を指します。この行為を行う際に心に留めておくべきことは、「見返りを求めない」という姿勢です。なぜ「見返りを求めない」ことが大切なのか、今日はその話をしていきたいと思います。
この話題を話そうと思った一因として、最近インターネットで目にした一つの格言、あるいはライフハックとでも言える言葉があります。「人に期待しないこと、これが優しさの秘訣だ」というその言葉は、私にとっては一部共感する部分もあれば、少し辛辣さを感じる部分もありました。一見「人に期待しない」とは冷たい印象を与えるかもしれませんが、その本質は「見返りを求めない」と同義だと私は捉えています。つまり、自分が何かを行う時に、その対価を求めない、という意味です。
しかし、「見返りを求めない」という表現は、ある種神聖な行為を行っているかのような印象を与え、居心地の悪さを感じる方もいるかもしれません。「人に期待しない」という、微かな冷たさを含む表現の方が説得力があると感じる方もいるでしょう。それは時代の流れを反映しているのかもしれません。
それでも今日は、「見返りを求めない」という観点からお話をしていきます。相手のために行う行動、「布施」を行う際に、見返りを求める心が芽生えると、その行為はうまくいかないのです。
施す行為は仏教的には「薬」
施すという行為は、自己を癒すための薬でもあると言えます。治すべき病とは、「貪りの心」です。「自分、自分」となってしまう貪欲な心こそが治すべき病です。この心を緩和する薬が、「布施」、つまり施すという心がけなのです。
しかし、薬には必ずと言っていいほど飲み合わせがあります。私たちが薬局で処方される薬でも、大抵は水、できれば白湯で飲むように指示されます。それは、例えばオレンジジュースで飲むと薬の吸収が悪くなるなど、飲み合わせが悪いと効果が半減するからです。同様に、「布施」、すなわち施すという行為も、見返りを求める心があると、飲み合わせが悪い、と言えます。だからこそ、見返りを求めないということが重視されるのです。
三輪清浄の教え
「三輪清浄」という言葉があります。「三輪」は3つの車輪を意味し、それぞれが清らかで、錆びついていないことが重要です。すべての車輪が清らかであれば、スムーズに回転し効果をもたらしますが、一つでも錆びついた車輪があると、それが引っかかって回転がスムーズに行われません。
この「三輪」、三つの車輪とは、具体的に何を指すのでしょうか。第一に、「施しをする私の心」、つまり施す人自身の心が清らかでなければなりません。第二に、「施しを受ける人の心」、施す行為を受ける人の心も清らかでなければなりません。そして第三に、「施す物」、つまり施す行為の対象物も清らかでなければなりません。これが三つの車輪です。
詳しく見ていきましょう。
- 第一の車輪:施す人の心
施す人の心が清らかであることは当然です。相手に何かを施したり、何かをしてあげることは素晴らしい行為です。しかしながら、「私はこんなにもしてあげたのだ」という自己満足に浸ってしまうと、心の働きとしては好ましくありません。何かを施した後も「私はあの時、あの人にこんなことをしたのに・・・」と思うようでは、自分の心は過去の行為に囚われてしまいます。これはまさにサビであり、心が清らかでない証拠と言えるでしょう。
- 第二の車輪:施しを受ける人の心
施しを受ける人の心も同様に、清らかである必要があります。施しを受けることが当たり前になり、過去に受けたものに執着して「前の方が良かったな」と思うようであれば、これもまた心が清らかでない証拠です。心は過去に囚われ、現在を生きていない状態になってしまいます。
- 第三の車輪:施す物
最後に、施す物そのものもまた、清らかである必要があります。盗まれた物を施すようでは、その行為は良いものとは言えません。この三つの車輪、すなわち施す人の心、施しを受ける人の心、そして施す物がすべて清らかであったときに初めて、素晴らしい「布施」、すなわち施しの行為となります。その結果、自分の心の貪りの病が治っていくのです。
見返りを求めると湧いてくる苦しみ
私が三輪清浄の教えを思うとき、ふと一つの物語を思い出します。物語は雨の日に起こります。強い雨の中、傘も持たずに濡れて立つ女性を見た男性は、彼女に自分の傘を差し上げようと思い立ちます。男性は「この傘、どうぞお使いください」と言いながら傘を差し出すのですが、女性は困惑した様子でその傘を見つめるばかり。男性はもう一度、「どうぞ、私は濡れても構いませんから、この傘を使ってください」と傘を差し出します。その言葉に対し、女性は黙って傘を受け取ります。女性が一言も言葉を発さないため、男性は困惑します。そこで彼は「どうですか?これで濡れずに帰ることができますね」と声をかけます。すると、女性は初めて口を開き、「あなたは私にお礼が言ってほしくて、この傘をくれたんですか?」と問いかけます。
この問いに、男性は思わず「ありがとう」というお礼を待っていた自分を反省します。元々は純粋に彼女に傘を差し上げようとしたはずなのに、無意識にお礼の言葉を求めていたと気づきます。こうして、男性は自身の行為を振り返り、その意図と結果を反省するのです。
この物語における女性の行動や言葉の是非は一旦置いておきます。ここで大切にしたいのは、男性が自然とお礼の言葉を期待してしまったということです。その結果、相手からのお礼がないという現実に対して、男性の心には怒りに近い感情が湧いてしまいます。見返りを求める施しは、どうしても相手の行動に依存してしまいます。相手が自分の期待通りの行動をとらなかったとき、自分自身が苦しみや負の感情を生み出してしまいます。これは、元々施しを通じて貪欲や囚われた心から解放されるはずの行為が、逆に自分自身の心に影を落としてしまっている状態です。本末転倒となってしまいます。
だからこそ、施しとは見返りを求めない行為であるべきです。私たちが感じる苦しみは、外部の誰かや何かが原因ではなく、自分の中に生じるものです。具体的には、自分が望む理想と現実とのギャップが苦しみを生み出します。見返りを求めるということは、自分の理想を押し上げる行為です。その結果、幸せを感じる感度が下がり、逆に苦しみを感じやすくなってしまいます。施しは本来、苦しみから自分を解放する行為であるべきなのに、見返りを求める施しはその目的から真逆の方向に進んでしまうのです。
主体的に生きる
お釈迦様は「法句経」にて、
他人の過失を見るなかれ、人のしたこと、しなかったことを見るな、自分のしたこと、しなかったことを見よ
法句経50
という言葉を残されています。これは、「相手がどう反応したか」や「相手の反応がどう見ても悪い」といった視点から他人の過失を見つけることに対して警鐘を鳴らすものです。そしてそれは、見返りを求めないことと同義です。
重要なのは、まず自分が施そうと思った、相手のために何か行動しようと思ったその心です。その心を大切にし、自分自身がその心の通りに動けたかどうかを確認しなさい、という教えです。この教えは、他人に依存せず、自分自身が主体的にいかなる時も道を歩んでいくためのものです。見返りを求めない心が、何かをしてあげようという良い心を起こした時には特に大切になります。これは、自分自身が無用な苦しみを経験しないための大切な教えです。
お盆の時期は、積極的に施し、つまり「布施」を行う時期です。良い笑顔を見せることや、困っている人に手を差し伸べるといった行動も全て「布施」に含まれます。その際には、自分の心の中に見返りを求めるような自分の理想を相手に押し付けるような心がないかどうか、自分自身を見つめ直すことも大切です。そのようにして、より良い施しのお盆を過ごしていただければと思います。