五つの「ふた」 怒りの対処
五蓋(ごがい)というのが少し面白いです。
五つの「ふた」という意味です。
「ふた」、というとどういった物でしょうか。
容器の中のものが出てこないようにするのが「ふた」の主な働きでしょう。
中身の液体がこぼれないようにしたり。臭いが出てこないようする為に使う場合もあります。
また食品の劣化を防ぐために使う場合もあるし、食べ物を煮詰めるのを助ける「落しぶた」なんかもあります。
しかしだいたい思い浮かべるところの「ふた」というのは、私たちにメリットがあって使うものだと思います。
仏教でいう「五蓋」、五つの蓋(ふた)は良くないものです。
具体的に言うと瞑想を妨げる5つの蓋です。
仏教の瞑想というと実はいろいろあるのですが、代表的なものは座禅です。
乱暴な言い方ですが、座禅は自分の心と向き合う修行です。しかし五蓋は自分の心を覆い隠してしまい、向き合えなくしてしまいます。
五蓋
- 貪欲(とんよく)
- 睡眠(ずいめん)
- 掉悔(じょうげ)
- 疑
- 怒り
「貪欲」が心を支配すると、集中しようとしても欲がどんどん沸き起こってしまい、集中に入れません。スマホを見てネットショッピングで一日が終わってしまいます。
「睡眠」は必要不可欠です。しかしこの春の時期はついつい、寝すぎてしまします。限りある時間を過ごす我々ですから、あまり寝すぎるのは考え物です。
座禅をする時もついつい寝てしまう事は多々あります。寝てしまうと当然心と向き合う事も、何もできませんから、厄介な蓋であることは間違いないでしょう。
「掉悔」は心が浮ついた状態です。楽しい事をついつい考えてしまい、集中に入れません。それだけならまだしも、後々時間を無駄にしてしまったことを悔いて、気持ちが沈み、またさらに集中できなくなってしまします。
中々心に刺さる所があるのは私だけでしょうか?
「疑」は、様々な事を疑ってしまい、すべきことに邁進できない事です。疑う事は日々の中で重要です。しかしここで言うのは、行動していく、ほかならぬ自分自身の事を信じられない、またその行動理念も信じられない。そういったものです。
カーナビで行き先を調べれば、自信をもって運転して目的地に行けます。しかしこの道で合ってるんだろうか、と不安に思いながら運転すると事故を起こしてしまう。そんなイメージでしょうか(?)
「怒り」は恐ろしいです。一瞬で心を支配します。人を傷つける行為、言葉を引き起こします。また、その怒りのピークが過ぎ去っても、「あの時こんな事があって…」などと過去を振り返り、「今度あったらやり返してやろう…」と未来の事にまで心を支配されます。
これでは当然、座禅どころではありません。怒りは恐ろしいです。
近頃はやりばのない状況に、怒りたくなっている人が多いかもしれません。
自分自身は怒りたくなくても、周囲の怒りに触れるとこちらも怒りたくなるし、逆に気分が沈んだりもします。
できれば怒りというのをコントロールしたいものです。
五蓋というのは座禅の時に取り払わなければならないものですが、日々の生活でも同じかもしれません。
天台大師・智顗(ちぎ)という僧侶(天台宗の考え方を形作った)も、座禅の指南書の中で五蓋について語っております。
では天台大師は、怒りの蓋をどのように取り除けば良いと仰っているか。
こうありました。
慈忍を修す
「慈しむ」と、「忍ぶ」という事を実践していく事で、心を清め、怒りの蓋を取り除くのだそうです。
「慈しむ」というのは相手の事を自分と対等な存在として大切にするということです。
「忍ぶ」というのは難しいです。耐え忍ぶ。つまり怒りをやり過ごせ、という意味で考えられ事が多いです。
確かに、怒りでかっとなった時は、一度深呼吸するのは大事だと教わりました。呼吸を挟むかどうかで随分、怒りというのは落ち着くところもあると思います。
しかし実際、耐え忍ぶなんて言われても、とても辛く、暗いイメージになりがちです。
ただ、実は「忍ぶ」というのも「慈しみ」と大きくは変わらないかもしれません。
忍ぶとは、認めることであると言われます。
他者を理解する事までは出来なくても、相手の状況、事情を認める。そうすれば、「仕方がないかもしれない」そう思える事を「忍ぶ」と私は考えています。
近頃は、みないつものような日常を送れず、不安や苛立ちを抱えています。
そんな状況の中で皆生活しているんだから大変だよね、と「慈忍」の心をもって、人・環境と接するというのが、自身の怒りの蓋を取り払い、落ち着いた心を得るきっかけになるのかもしれません。