天台宗のシンボル 「不滅の法灯」「一隅を照らす」
仏教と光
仏のもつ力・働きは、しばしば光に例えられます。
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
仏説観無量寿経
仏の慈悲の光は、あらゆる世界へと届き、人々を照らすと言う意味です。
仏の働きを光に例える表現は挙げればキリがありませんが、中でも天台宗は光を大切としている節があるように思います。
天台宗の本山「比叡山 延暦寺」には「不滅の法灯」と呼ばれる小さな灯があります。
不滅の法灯
写真は京都国立博物館にて展示されたレプリカ。比叡山の中心地と言えるお堂、根本中堂でも同じように灯籠が3つ並んでおり、それぞれの中に「不滅の法灯」が灯っています。中を覗いてみるとお皿の中に油(菜種油が多いらしい)が満たされています。その油からはローソクの芯の部分にあたる灯芯が伸びています。
「法灯」
「法」とは教えのこと。つまり「教えの灯」ということです。仏の教えは、私たちの心の暗い部分を照らし迷いを晴らす。そして私たちの歩む先を照らしていく道標となる。そんな性格から仏の教えは「灯火」に例えられています。教えの灯、それが法灯なのですね。
「不滅」
「滅さず」とあるように、この灯は”消えていない”んです。ではどれぐらいの期間消えていないか?
1200年です。
ほんまかいなと言うツッコミが聞こえてきそうですが…
比叡山の僧侶は様々な方法でこの法灯を守っています。見える場所にある灯籠3つは、いわばスペアのような形となります。他にも、粉末のお香を燃やす火に使うなど、多様な形でこの灯は絶えることがないよう守られています。
しかし比叡山と言った時に思い出されるのは、信長の焼き討ち。比叡山は瑠璃堂という小さなお堂を除いて、全て焼けました。当然、不滅の法灯のある根本中堂も焼けたことになります。
「じゃあ少なくとも焼き討ちのときには消えてるはずだ。不滅とはいかないだろう!」
確かにその通り。
焼き討ちの際、一度は比叡山から「不滅の法灯」はなくなりました。
しかしこの世からなくなってしまったわけではありません。過去に、灯を他のお寺へと分けていました。「分灯(ぶんとう)」と呼ばれる行為です。
当時は山形県のお寺「立石寺」に分灯していた法灯が残っていたそうです。そこで山形県から、当時のことですから徒歩で運んだとのことです。想像を絶する大変な旅だったと想像します。
そんな経緯があり、比叡山に「不滅の法灯」が再び灯ることとなったのです。
今現在でも、不滅の法灯は比叡山の僧侶によって日々守られています。油を注ぎ、灯芯を継ぎ足し管理されています。
私自身は直接その作業をしたことはありませんが、作業を見させていただくことがありました。そこで伺ったお話で興味深いものがありました。
普通、絶やしてはいけない大切なものなら、管理し忘れることを防ぐために担当者を決めそうなものです。複数人で回すならローテーションを組んだりするでしょう。学校の日直のようなものです。
しかし「不滅の法灯」はあえて管理をする日直当番を決めていないのだそうです。
当番が決まっていると、その当番以外のものは他人事になるからです。
比叡山の根本中堂では、僧侶が皆それぞれ法灯のことを気にかけながら、灯を守っています。まさに「油断」することなく、油を日々つぎ足しながら管理しているのです。
不滅の法灯ってそもそも何?
どうしてそこまでしてこの灯に拘るのか。疑問に感じていらっしゃるかもしれませんね。この灯は、我々天台宗の僧侶にとっては非常に“ありがたい”ものなのです。
なぜならば、比叡山を開いた伝教大師 最澄様が灯した炎だから。世の中の闇をはらっていく仏の教え、その光を後世まで引き継いでいこう」そんな志とともに灯されたのです。
明らけく 後の仏の御世までも 光りつたへよ 法のともしび
「不滅の法灯」は神秘の炎か?
「不滅の法灯」は今、比叡山のシンボルとなっています。参拝・観光に来られた方々には、事前に調べてきてくださった方々も多く、「不滅の法灯というのはどちらで見ることができるんですか?」と質問してくださることが多くあります。
「仏様の前に3つ、灯籠がありますよね。あの中で灯っているのがそうですよ。」そうご案内します。すると、時にこんなことを言われました。
「え?あの中にあるんですか?へー… 案外、暗いですねえ。」
く、暗いですか?と困惑したものです。
ただ考えてみると、みなさま旅行社が作った広告などを見て、いらっしゃっているわけです。とある広告にはこんな文言が載っていました。
「千二百年、灯り続ける神秘の炎」
期待を膨らませて来てくださっていたのだと思います。だからこそ、「案外暗い」という感想となったのでしょう。
「暗い」その通りだと思います。
不滅の法灯は何も神秘的な炎ではないんです。普通の炎です。1200年間、不思議な力を持って、ひとりでに燃え続けているのではありません。
「不滅」であるのはひとえに、多くの人々の力によって受け継がれてきたからなんです。
一隅を照らす
不滅の法灯は私たちの姿に似ていると思うのです。他ならぬ私たちが滅することのない灯なのかもしれません。
伝教大師(最澄様)はこんな言葉を残されています。
一隅を照らす 此れ則ち国宝なり
山家学生式
「一隅」とは片隅という意味です。では片隅とはどこかと言うと、私自身や私の周りのことを指します。
私たち個人は世界を照らすほどの眩さはありません。しかし自分の周りを助け、絶えず照らしていくと光の輪が広がり、やがて社会全体を照らしていくこととなる。だからこそ、「一隅を照らす」そんな人物こそが国の宝であると伝教大師は教えているのです。
思えば「不滅の法灯」も、お堂全体を照らすような光を放つわけではありません。自身の周りを照らす存在です。
また、ひとりでに燃えて、周りを照らしているのでもありません。周りの空気があってこそ灯り続けることができます。そして何より、伝教大師の志の炎を後世に伝えようとする人々の力によって灯り続けています。
我々も同じでしょう。自然の恵みをいただきながら生きている。そしてたくさんの人の支えがあって生きている。だからこそ周りを助け、照らすこともできる。
時に、私たちの灯は消える時があります。命を終える時です。
けれども分灯によって不滅の法灯が受け継がれてきたように、私たちの灯も周りの人に受け継がれていくのではないでしょうか。
「一隅を照らす」その思いを持って人々と接するならば、自分の姿に周りは感化されて、志は広がっていく。受け継がれていくものだと思います。
不滅とは受け継がれていくこと。受け継がれるからこそ不滅なのだと思うのです。
「不滅の法灯」から、私たち自身の生きる姿、周りを照らす力を省みるきっかけとなれば幸いです。