罪は抱え続けるものなのか 罪悪感と懺悔
僧侶の役割として、人がお亡くなりなると供養するということがあります。
故人のため、手を合わせ、お経を読む。それは意義深いものであり、全力を尽くす事は言うまでもありません。
また故人を弔う一方で、ご家族の思い出を聞くというのも一つの役割です。
思い出を語る中で、語り手自身の感情が整理され、悲しみや温かい思い出と向き合うことで死というものが受け入れられていきます。
しかし思い出には後悔というものが付き纏う場合があります。
「あの時ああしとけば良かった。」「あの時こんな事をしてしまった。」
そんなことを打ち明けられ、返答に困ることが何度かありました。
亡くなって間もない時期だけでなく、何年経ってもその思いを持ち続けている方もいらっしゃいます。
罪悪感と呼ばれるものです。
人の死を契機とせずとも、日常の中でもこの罪悪感を大小あれども感じている方が多く見られます。
人間関係でこんなことをしてしまった、何もできなかった、など。
過去におかしてしまった罪、だから罪を背負って生きていくんだ。
ひどい場合だとこんな私が幸せになっていいのか?と問う場合もあるようです。
しかし本当にそうなんだろうか、という疑問が何となくありました。
今回は罪悪感をどのように捉えていけばよいか、考えて行きたいと思います。
罪悪感の原因
罪悪感とは過去の行動を悔いて、過去の行動を悪であると認識した時に表れます。
罪悪感のある状況、納得いかない状況、苦しみを導く行為、これを悪業と言います。
「業」は何らかの行為をしたときに発生し、そしていずれ何らかの結果をもたらします。自業自得と言われるものです。
極端な例をあげれば、殴る、悪口を言う、恨む。そんな風に苦を導く行為が悪業です。
過去に悪業があり、それが結果として罪悪感として表れているのです。
「あの時あんなことをしてしまった…」
過去の行為について見つめたとき、罪悪感は辛くのしかかって来ます。しかしその事に気付き、向き合ったことには、とても大きな意味があるように思います。
懺悔で悪業・罪悪感と向き合う
仏教で自分の罪を洗い流すことを懺悔(さんげ)と言います。
キリスト教でも懺悔(ざんげ)といって、罪の告白について同じ言葉を使います。
懺悔をする際にまず必要となること。
それは因果の法則を信じる事です。仏教の基本です。
あの時の行為が原因となって今の苦がある。それが因果の法則です。
悪い行いは苦の結果を導く。これを理解することです。
苦の結果というのは目に見える罰があたるとか、それだけではありません。
精神的に悩んだり、満足感を感じられずしんどい。こういったものも苦です。
それらは過去の行い、業の表れなのだということです。
「あの時ああしておけば…」
この思いは因果というものをある程度意識した上で出てくる言葉だと思います。
そうすると目指すべきは善をなしていくことです。善の行いは善の果を導きます。心の安穏、幸せの為に善をおこなっていくのです。
単純ですがそうなのです。
罪悪感そのものについて
しかしはじめに言いましたように、罪を抱え続けていかなければいけないと考えたり、幸せになってはいけないと考えてしまう方もいます。
ここに懺悔の最終的な目標との関わりがあります。
懺悔では因果の法則をまず信じるというのは既にお話しました。
そして経典を読んだり瞑想を行います。
最終的には罪というのが実体のないものであることを観るのが懺悔です。これが目標となります。
悟りの境地から見れば、罪は幻と言われます。
過去の行為は確かに事実です。悪業は苦の結果を招きます。
しかしそれは継続されるものではありません。この世は無常なのですから。
「背負っていかなければならない罪」というのは、その人の作り出したものであり、消滅するはずのものを「ある」と思い続けているのです。
罪という固定された存在があるわけではないのです。
だから懺悔をし、過去の悪業を見つめ反省し、善の行いにつなげていくのであれば、自然に消滅していきます。
衆罪如霜露 恵日能消除 是故應至心 懺悔六情根
多くの罪が存在するが、これらは明け方の霜露のようなものである。日の光が消し去ってしまうものだ。だから心から自分の行為について見つめ直して反省し、善をなしていこう。
過去に過ちを犯したとしても、今の自分がどう行動していくのか。仏教のものさしはそこだと思います。
善をなし、幸せになるよう行動していく、それを妨げられる事はありません。
罪悪感を見つめて向き合い、されどもけ罪の意識にとらわれてしまうのではなく、行動へとつなげていきましょう。