読経の心得 身・息・心の調和
最近、声を出していますか?
私は大学生の頃は、一人暮らしでした。
授業もバイトもサークルにも行かない日だと本当に人と会いません。丸一日声を出さないこともありました。
すると「コンビニでお箸入りますか?」と言われても声が出ないんですよね。大学生の時は同じような友人が何人もいました。
そんな一部の学生でなくとも、退職した後、また仕事が休みなどで、誰とも喋らず声を出していない、そんな方もいるのでは?
ありがたいことに私は今妻も子供もいますので、毎日人と 少なからず 喋っています。
自分が無口なせいで妻が喋ることが多い我が家。
妻に「私ラジオのDJ状態になってない?」と指摘される事もありますが、会話はあります。
また僧侶としてお寺に居させてもらっていますから、毎日お経も読みます。
だから声を出さないことはありません。
僧侶がお経を読むのは当然です。
しかし、「ぜひ僧侶じゃない方にもお経を読んでいただきた!良いものだよ!」という話を今日はしていきます。
読経とは?
ここ数年、私が法事に伺った際は、経本を家族の方にもお渡しするようにしています。
皆で一緒に読んで頂くためです。
本をお配りすると、ありがたいことに声に出して読む方もいらっしゃいます。それが無理でも目でずーっと追いかけて下さります。
恥ずかしい等の抵抗がなければ、声に出していただけるとありがたいです。
しかし目で追うのも立派な読経ですし、一緒に読むという事が何より大事なので、目で追いかけていただくのもありがたい事です。
皆様声に出す出さないの違いはあれども、とりあえず読んで下さる方が多いです。
読経が終われば、「一緒に読んでよかった!」とおっしゃってくださる事も多くあります。
しかし最後には皆さんこう仰います。
「内容は分からんけど」
確かにお経は漢字の羅列ですから内容が分かりませんね。もちろん全てに意味があります。日本語として読み下すこともできます。
しかし法事の時には漢字の「音」をひたすら読みますので意味は分かりません。
内容が分からないのに読んでいて意味があるんだろうか?という疑問は当然出てきます。
では「読経する」とはどういう意味があるのでしょう。
これは読む人それぞれで解釈があると思います。
お経を声に出して読むとすっきりします。それは単に声を出してストレスが発散したというものではなく、心が調(ととの)っていった、という事でしょう。
読経は自分自身と向き合うことになります。座禅なんかと一緒です。日常生活での気付き、自分自身の心の変化にも敏感になると思います。
だから座禅の時に使われる「自分自身の調(ととの)え方」を意識して私は読経しています。
読経を「自身を調え、自分と向き合う、瞑想の一部」と捉えて実践してみるのはどうでしょうか。私が心がけていることをご紹介したいと思います。
『天台小止観』の調五事を参考
目次
食を調える
まずは程よい食事をとることが必須です。
食べすぎると頭がぼーっとします。眠くなり、呼吸も苦しくなります。
食べないのも問題です。体が疲れ、頭も働かず、集中しようとしても疲れて途切れてしまいます。
「節量を知る」ということです。
私は食べすぎる傾向にありますので、少なくする意識の方が必要なことが多いです。
「小欲知足」という言葉があります。欲しいと思う気持ちを整理し、まずは自分にあるものを確認するということです。
本当に必要なのかどうかを見極める。これはきちんと自分自身と向き合わなければ分かりません。自分と向き合わず、欲しいという欲のままに行動すると過剰になってしまいます。
これくらいが調子よく出来るな、という加減を知ることです。
逆に食べられない、という悩みもあります。必要な量は人それぞれ違います。自分の適量を探ってみてください。
また量だけではなくて、臭いのきついものも食べるのは推奨されません。集中していくことの妨げとなります。
食に関してはどこまで制限するかという話になりますが、法事などの読経前・座禅の前は、ニンニクを食べるのは控えた方が良いと言われています。
睡眠を調える
眠り過ぎるのは良くありません。
寝すぎが健康被害と関係するというデータもあるそうです。
座禅の指南書の中では、過度の睡眠は限りある私たちの時間を奪っていくものと言われています。
自分自身と向き合うということは、私たちの悩み苦しみと向き合い、解決していくことでもあります。苦しみから逃れ、心の落ち着きを手に入れる、仏道を進むという事です。
限りある時間の中にいるにも関わらず、仏道を進まず、無為に睡眠で時間を過ごしてしまう。これは火の手が迫る家の中で突っ立っているようなもの、だそうです。
悩みや苦しみの火は絶えず迫ってきます。それと正しく向き合うためにも、過度の睡眠は良くないのです。
一方で過度に睡眠を削っている方も多いです。座禅や、読経の時でもそうですが、睡眠が不足していると、まず不本意なタイミングで寝てしまいます。
せっかく時間を割き、足を運んで読経するのに、これほど勿体無いことはありません。しっかりと必要な睡眠をとることが重要です。
ただし、「自分はこれくらいの睡眠でもいける」と思っていても、体に負担がかかっていることもあります。
たとえば、睡眠時無呼吸の症状を引き起こしていたとしたら、睡眠の質が下がっており、体に無理をさせていて、万病の元となる場合もあります。
とはいえ、自分のことをしっかりと把握するのは難しいことですよね。そんなこともあり、座禅においては、指導者に教えを乞う重要性がよく言われます。
身・息・心を調える
身は姿勢や身だしなみ、息は呼吸、心は意識を指します。
座禅をするといえば、通常この3つを調えることが主とされます。
私たちは何かを行動する際、心で意思決定をした後、息を調え、そして行動します。
心→息→身というのが通常の流れです。
しかし自分自身と向き合う際には、この流れを逆にしていきます。
まず姿勢などの身なりを調え、息を調えコントロールし、心を静めていきます。
こうして心を静めて、はじめて心と向き合うことができるようになります。
水に映る月を見ようとしても、水面が波立っていると月がちゃんと見えない、だからまず心の波を抑える、そんなイメージです。
身
まず背すじをまっすぐ伸ばすことが大事です。
背すじがしっかりと伸びているのであれば、足の格好は正座でも、座禅のように組んでも、椅子でも構いません。
椅子は失礼なんじゃないか、と心配される方がいらっしゃいますが、昨今ではお寺でも椅子が使えることが多いです。
正明寺の本堂も椅子ですし、客殿の畳の間でも、座布団と同じ数だけ、座敷用の椅子をご用意しています。
ともかく、姿勢の話です。
背すじを伸ばして、前後・左右に傾かず、頭を垂らさず、すっとした姿勢です。
背すじを伸ばそうとして力が入るのもダメです。すっと、です。
経本は両手で持ちます。
片手ですと、ジャバラ式にページが次々とめくれてしまいます。
私はこのような形で経本を持ちます。
力まず持つのがポイントです。
目線が下がると喉が締まって声が出にくくなる面もあります。これよりも少し高めに持つのも良いと思います。
いずれにせよ、経本は目線の近くにおきます。
ページをめくる際は、右手を動かす、右手を動かす。
次のページをつまむ必要がありません。だから高い位置で経本を持っていても、すっとめくれる。よくできているなあと思いますね。
息
次に息、呼吸を調えます。
普段の法事の席では、声を出すことを遠慮して控えめに読経される方が多いです。
慣れないことでしょうから、仕方ないかなと思いますが、せっかくの機会なので是非しっかりと声を出して頂きたいです。
”しっかりと”です。力が入ってしまい、”りきむ”のとは違います。
息の吸い方と、吐き方を安定させるイメージです。天台宗では木魚で拍をとりますから、しっかりと吐き切ることが出来ないと、短い間にしっかりと吸う事ができません。
息が荒くなると吐くのも吸うのも難しくなり苦しくなります。かといって息が細すぎると声が出ず、頼りない読経になります。
しっかりとした声量を出し続けたとしても、ガムシャラに力まず、一定に息を調整するように気を付けると、疲れにくいのです。
とはいえガムシャラに声を出すのが良い事であるのも承知です。太鼓が鳴っている中で般若心経を大勢の僧侶でガムシャラに唱える、必死にお経を読むのは良いものです。修行道場では出来る限り大きな声で読むよう指導されました。
本当にハイになるんです、気分が高揚していく。気持ち良いんですね。
エンジンをフルで掛けられるのは凄いことです、一人で十人の声をかき消す方もいてかっこいいです。
しかし必要な時にエンジンを掛けられるのも、普段から声をコントロールができてこそです。息を調整できるからこそです。
日日の読経の時には力まず、かつよく通るような息の使い方が求められる、と思っています。
心
最後に心です。
お経を読むことに意識を集中させます。
おすすめは経本を見ることです。
お経を覚えてくると、目を閉じて読むことも出来ます。しかし目を閉じるのは、眠くなったり、妄想が浮かんでくるリスクも高まるので、上級者向けなのかもしれません。
私は経本を見られる状況のときは可能な限り文字を目で追います。文字に集中するイメージです。
お経に慣れていない時は、必死に文字に食らいつき、むしろ集中できているかもしれません。少し慣れてきてからが肝心です。余裕が出てくると、文字を見つつも別のことが頭の中に浮かんできます。
じゃあどうするかという話を次にします。
身・息・心をチェックする
姿勢をただし(身)、息をコントロールし(息)、意識を集中させる(心)。
一度完全に調えられたとします。しかし次第にこれは乱れてきます。人の集中力は15分と言われるそうです。30分以上続く法事の途中で意識がそぞろになるのは自然なことです。
「意識がそぞろになっているな」ということに気付くことが大事です。
一番気付きやすいのは姿勢(身)です。
背筋が曲がったり、頭が垂れてきます。
特にわかりやすいのは、経本を持つ位置が下がってくることです。合掌しているなら、手の位置が下がってきます。また合掌の角度が垂れてきます。
この変化に気付き、その都度直します。
息、呼吸も同じです。
だんだん息が苦しくなります。それは姿勢によることもありますし、力が入って無駄に息を使っている場合も多いです。
近頃はマスクをしながら読経することがほとんどで、余計に息が苦しくなりやすいです。
しかしうまく呼吸ができている時は、全く苦しくならないんです。
無駄に息を使わず、かと言って気の抜けた声になっていないか、気を付けます。
心も同じです。集中が抜けてきたらその都度直します。
眠くなってきたり、ぼーっとして意識が抜けてくる、そんな時はまず間違いなく姿勢や呼吸も悪くなっていますので、早速それを直します。また、意識を上の方に持ってきます。鼻先あたりとか言われます。
逆に別のことを考えてしまう、妄想に取り憑かれる場合には、意識を下の方に持ってきます。おへその下あたり、丹田という場所ですね。呼吸を整える時にも意識する大事な場所ですが、この丹田、体の下の方に意識を持ってきます。
このように身、息、心を大事にしつつ、乱れていたらそれに気づきその都度直す、それが読経を集中して続けるコツだと思っています。
正直難しいです。しかしこれは私たちの生活につながる重要な事でもあると思うのです。
日常につながる身・息・心
普段、日常の中でも、姿勢が悪くなっていたりとか、ストレスで息が荒くなってるなとか、作業中に別の事を考え出してしまったりとかありませんか?
しかも、何となくそれを許してしまっていたり。
気にせずスルーしていたり。
自分自身のことのはずなのに、見えていないことばかりなんですよね。
自分自身のことが見えないと、何故自分が悲しいのか、怒っているのかも分からず気分が落ち込むだけになってしまったり。逆に楽しいことがあってもそれに気づかず、いつもと変わらない、つまらない日だったなと思ったり。
そんな良くない方向に進んでいきます。
だから、法事の席など読経をする時に、集中して取り組んでいただき、ぜひご自身の身・息・心をチェックしてください。
その時間をきっかけに、日常の中でもご自身と向き合えるようになれば良いなと思うんです。
そうすれば仏の教えが生活に活きた事になり、ご先祖さまや仏さまも喜ばれるのではないかと思います。