月日の流れ 発し難くして忘れ易きはこれ善心なり
早くも上半期が終わりを迎えようとしています。
本当に月日の流れは早いなあと感じます。早いと感じるだけであればまだいいのですが、自分の行いを省みた時に「焦り」を感じ落ち込んでしまうのは私だけではないだろうと思います。今日はそんな月日の流れとそこから来る焦りを過去の御祖師方がどう捉えていたかをお話していこうと思います。
今日の話の流れ
- 道元禅師と月日の流れ
- 伝教大師(最澄)と月日の流れ
- 善い心は忘れやすい
- 善因善果
道元禅師と月日の流れ
最近私が知った言葉で、曹洞宗の祖であられる道元禅師のおっしゃった言葉があります。
光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず。多劫の功徳をぬすむ。光陰とわれと、なんの怨家ぞ。うらむべし、わが不修のしかあらしむるなるべし。
「光陰矢のごとし」と言いますように、光陰は月日、時間の流れです。
時の流れは私の修行を盗む。一日の修行で得た功徳を盗むだけでない。前世から積み重ねてきた功徳をも盗む。時の流れと私とは、怨みあう関係であろうか、いや違う。怨むべきは、私が修行しないことの結果である。
あの道元禅師であっても月日の流れの速さを恨んだわけです。しかしさすが道元禅師と言いますか、恨むべきは時の流れでなく、私が修行をしないことであると、自身の行いを正しく反省なされております。なるほど確かに、私も月日の流れを嘆くことで責任を転嫁している、そんなことがあるものだと反省しました。
しかしそうは言ってもなかなか胸を張って月日の流れには向き合えないものです。また「どうして自分はこんなに自堕落で、しようと思ったことが手につかないんだろう」こう悩む方も多いと想像します。
しかしそんな悩む姿こそ、人の姿なのかもしれません。
伝教大師(最澄)と月日の流れ
道元禅師の言葉からもそれは伺えますが、もう一つ伝教大師の言葉を紹介したいと思います。
発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。『願文』
「起こすのが難しいのに、忘れやすい物、これが善い心である。」伝教大師はこうおっしゃいました。
この言葉は、伝教大師が奈良の都から比叡山の山奥にこもった際に述べたものです。誘惑の多い都でなかなか自身の修行が行えない、そんな有様を省みて比叡山で修行をし、発した言葉です。
この言葉をもう少し詳しく説明すると、「得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。」とあり、生まれ変わる輪廻という思想の中で、善行によりせっかく人間として生まれることができたのに、良い心は起こすのが難しく忘れやすいと言われます。
道元禅師が「多劫の功徳をぬすむ。」と表現され、前世からの徳を失うとおっしゃったものと通じるところがあり、歴代の御祖師様も同じ思いのもとで苦心なされたんだなと感じます。
善い心は忘れやすい
今一度、伝教大師の言葉を振り返ってみましょう。
発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。
「起こすのが難しいのに、忘れやすい物、これが善い心である。」
言い得て妙と言うのでしょうか、この言葉をみると自分自身の生活の中で思い当たる節がいくつもあります。
もう2021年も半分が過ぎたわけですが、一年の始まりの抱負を思い出してみると、なかなか思うようには行かないことが多いでしょう。抱負をたてるのは労力のいるものです。起こすのが難しいものです。しかし忘れてしまいやすいものでもあります。
また一日の始まりに計画を立てる方もおられるでしょう。今日は勉強をするぞ。しかしそんな決意は忘れて夕方になり、そして思います。「明日の自分に託そう。」しかし月日は止まることを知りません。焦りが募ることとなります。
もっと短いスパンでもそうです。「これから勉強するぞ!」と決心したのに気づいたらスマホでTwitterを見ていたり。「いかん、勉強するんだった!」と思いスマホを置きますが気づいたらTwitterを見ている。
お経を読んでいる時や坐禅の時にも、善い心が忘れられることを感じます。せっかく「読経や坐禅をするぞ」という善い心を起こしたのにも関わらず、お経を読んでいても、座っていても、意識があっちに行き、こっちに行きする。そんな経験のある方もおられると思います。
発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。という言葉が噛み締められますが、ここで善い心を忘れてしまう自分自身を責め、落ち込んでしまってはいけません。
伝教大師しかり、道元禅師しかり、過去の偉人たちも同じ思いをされていたのです。
ですから惰性に流され、善い心を忘れてしまう、それは人の自然な流れなのかもしれません。
しかしその惰性という流れに身を任せることなく、あらがって真の自由となることを伝教大師も道元禅師も目指されたのだと思います。
善因善果
伝教大師は、先程の文に続けて
因無くして果を得るはこの処(ことわ)り有ること無し。
善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。
と述べられております。
原因があって結果が有る。「善い結果」は「善い原因(善い行い)」から生まれます。
そこに魔法のように状況を好転させるものはありません。
善因善果。善い行いから善い結果、善い未来が生まれます。
善い心は忘れやすいもの。決意も忘れやすいものです。そんな自分の姿を素直に受け止めつつも、常々自分の行いを振り返りながら善い行いを積み重ねていきましょう。