「行歩平正」智慧の脚で迷惑をかけながら歩く
こんにちは、今日は天台宗としての仏教理解を確立した天台大師が大切になさったお経、『法華経』についての一説を紹介しようと思います。
コロナの影響で私たちの生活が大きく変わり、その生活も日常のように感じられるようなってまいりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
最近どうやら運動不足の方が増えているようです。大丈夫ですか?病院と自宅の往復が唯一の運動、そんな方も多いようです。人によっては毎朝の散歩を日課とされている方もいらっしゃる。姫路城の周りなんて朝というか、ほぼ夜のような時間からウォーキング、ランニングの方々がいらっしゃいます。生涯自分の脚で歩くんだ!という目標を語ってくださる方もいます。
とても素晴らしいことだと思います、「体が資本、健康は大事」と言いますもんね。
しかし、その反面、あまり無理もしないでくださいね。健康であることが全てじゃないんだと言いたくなる自分がいるんです。
生涯自分の足で歩くということについて。
『法華経』には「行歩平正」という言葉があります。簡単に言えば、安定して正しい道を歩いて進むということです。
この言葉が出てくるのは、「三車火宅の譬え」というお話の中です。
とある場所に大きな古いお屋敷がありました。そこには家主とたくさんの子どもたちが住んでおりました。
ある日、火事が起きます。火の勢いは凄まじく、家主は何とか、たった一つしかない狭い門から外へ出て逃げ延びますが、家の中にはまだまだ子供達がたくさんいて、とても抱えて皆を連れ出せる状況じゃない。
そこで必死に呼びかけるんです。「おおーい、火事やぞ!出てこんと焼け死ぬぞ、すぐに来なさい!」しかし子供たちは家の中のおもちゃで遊ぶのに夢中ですし、火事とか焼け死ぬということもよく分からなかったので無視しました。
これは困ったということで家主は「おおーい、外に前から欲しいって言ってたおもちゃがあるよー。ほら、羊と鹿と牛がいるよ!早く乗って遊ぼうよー」と呼びかけます。今で言えば、三輪車、スケボー、マウンテンバイクあるよーとかでしょうか?
子供たちはその声を聞いて皆外に出てきます。まあよかった。しかし羊も鹿も牛もいません。子供たちは「言ってた乗り物は?」と聞いてきます。そこで家主は、綺麗で大きな白い牛を見せました。宝石で装飾されたきらびやかな牛です。
子どもたちも大喜びで早速皆で乗って楽しみ、旅に出ます。その白い牛は筋肉もあって力強く、しかも風のように速い、そして「行歩平正」、進む時はとても安定して正しい道を進む。そんな大きな白い牛に皆で乗り、とても喜んだ。そんなお話が法華経にあります。
これを三車火宅の譬えといいます。
火宅というのは火のついた家のことです。私たちの住む世界、また個人の体を表します。
体には火の手が迫っています。この火は老いとか、病とか死を表します。そんな苦しみの火がどんどん迫っている状況に気づかず、焼かれているのが私たちだよと示しています。
そんな状況の中で何とかその火の家から連れ出そうと言葉をかける家主がお釈迦様のことです。まずは羊、鹿、牛の車があるよと興味を惹き、外に出てきたら実はもっと良いものがあるんだよ、と大きな白い牛を与える。この大きな白い牛は『法華経』を意味します。「法華経」の教えはたくさんの人を救い、行歩平正、つまりまっすぐに道を歩んでいける教えだと言っているわけです。
以上が法華経のお話です。
コロナ禍の昨今、私たちの世界も火宅の中であると言えます。老い、病、死というのは昔から変わらずあります。それがここに来てコロナにより、我が身は病、死の危機に晒され、そして自粛して過ぎていく日々の中で体の不調や老いを感じる機会が増えた方も多いのではと思います。まさに火の迫る家、火宅です。
そんな火が迫る身でありながら、少しでも健康に生きようと志す方が多くいらっしゃいます。外出を控え運動不足になりがちな環境であるなか、生涯現役、自分の脚で歩く!人の迷惑にはならないぞ!と励まれます。確かに人の迷惑にならず、自分の脚で歩くことは文字通りの「行歩平正」です。素晴らしいことです。私もそうありたいと思います。
しかし、手放しに、「迷惑をかけず自分の脚で歩く、健康こそが素晴らしいものだ」とも言いたくないんです。
「健康でなくても、迷惑をかけても大丈夫だよ」という世の空気が必要だと思うんです。
私はお家のお仏壇にお参りさせていただくことも多いです。近頃はおじいさんお一人、おばあさんお一人で住まわれているお家もよくあります。
そんな中、よく耳にする言葉があります。「ピンピンコロリで死にたい」。寝たきりになって周りに迷惑をかけるような事なく、最後まで自分の力で生きるんだということだと思います。
それは大切な家族の手を煩わせないという優しさですし、もしかしたらご自身も身内の介護をした経験からおっしゃっているのかもしれません。
しかし健康でいなければ、というプレッシャーにしばられていると、ご自身の病気や老い
を嘆かわしく感じてしまいます。去年よりも元気がなくなった、脚が弱って階段を登るのがしんどい、もうダメだ。と仰る方々を見ると、「体が資本、健康が何よりも大事」とは思えなくなってきました。
僧侶として言葉にしないといけないな、と感じるのは、「老いも病も死も避けられない、それが火宅で生きる私たちの姿なんだ」ということです。
老いや病、死はいくら体を鍛えても健康を志しても、必ず訪れるものです。しかし本当の私達が避けるべき火の手の正体は、「老い」、「病」、「死」への恐怖、不安です。
行歩平正は生涯自分の脚で歩くというような身体的な満足だけをいう言葉ではありません。
今日の法要の主役でいらっしゃる天台大師は『法華文句』という書の中で「行歩平正」について、「定慧均等」とおっしゃっています。「心を落ち着けること、そしてその落ち着いた心で観察すること」、この2つが揃った状態のことです。
恐怖、不安の火の手から脱するために、行歩平正「心を落ち着けること、そしてその落ち着いた心で観察することが揃った状態」を目指していこうと仰っているのです。
そこでまずはお寺でも、お仏壇の前でも結構です。仏様の前に座り、手をそっと合わせます。仏前にあると不思議と身が引き締まります。そして深呼吸して息を整えます。息がととのってくるときっと心が落ち着いていくのが感じられるでしょう。
そして手を合わせた時の温もりや、周りの些細な音を感じます。
次に私自身に目を向けていきますが、その際には目には見えない、繋がりも意識してみてください。家族・友人との繋がり、たとえ今は会う事ができなくても今までの思い出が今の私を形作っているはずです。亡くなった方々とのつながりも同じです。いろんな思い出があり、教えてくれたことがあり、それらが自分の一部となっています。全ての繋がり、縁によって今の私がある。
それは他の人にとっても同じです。私が誰かの一部になっています。
私の中にもありますよ。年に一度、夏にお参りする関係の方でも「今年も元気でいらっしゃるかな?」と思います。お亡くなりになり、後を継ぐものがおらずお参りに行く事がなくなった場合には、その方の住んでらっしゃった場所の近くを通ると「ああ、なつかしいなあ」と思い出します。
年に一度あう程度の関係でもそうなんです。ましてや家族や友人であれば一層のことです。お互いに影響を与えあい、今もなおその影響力が中で生き続けています。
それが縁、繋がりで成り立つという事なのかな、と私は思います。
そして繋がって成り立つそのあり様をクリアに観じられるのが天台大師が仰る「定慧均等」であり、「行歩平正」な姿です。
だから健康でなくても迷惑をかけても、存在が否定されることはない。大丈夫だよ。そんなふうな視点も持っておきたいものです。
偉そうなことを言っています、私も正直言ってできることなら健康でいたいです。しかし望んでも思う通りにいかない以上、天台大師の言う行歩平正たる生き方、心を落ち着け、周りや自身のあり様を観じ、老いも病も死も受け入れていく姿勢は持っておきたいものだと思います。
ありがとうございました。