toggle
2020-06-29

森はたくさんの木だが、木は森ではない話【諸行無常・諸法無我】

諸行無常・諸法無我

暑くなって参りました。本格的な夏が心配になってくるころですけれでも、いかがお過ごしでしょうか?
季節がやってくるというのは季節が去っていく事。
そんな時は「諸行無常」という言葉を思い浮かべます。お坊さんらしい話をしています。

「諸行無常」という言葉は『平家物語』の冒頭然り、仏教の言葉としては有名なものではないでしょうか?
すべてのもの、行いに不変のものはない、変わっていくという事です。

物はいずれ壊れる、栄えているものも衰える、すべての存在はいずれ失われる。だから拘らないで。

確かにこの理解は経験的には理解出来ます。正しいし肝に銘じないといけない。
お気に入りの服は汚れボロボロになる、好きなアイドルは引退する。人はいずれ息を引き取る。
暗いことばかりでもないですね。子供は成長する、閉塞感の漂う状況もいずれ終わる。

しかし、ものが朽ちていく、いずれなくなるから執着しないでという理解だけでは不十分な点もあります

何故「諸行無常」と言えるのか?

「諸行無常」という教えの根底には「諸法無我」というものがあります。

自分自身を動かす不変の存在というものはなく、全てのものは他者との関係性の集合で成り立っているという教えです。

影響しあって成り立つ

先日諸法無我を感じることがありました。


6月21日はなんの日だったか覚えていますか?
父の日です。

妻と「今日は父の日だね」という話になりました。すると妻は部屋を見渡し、あったお菓子を手に取り僕に握らせました。

なんでかな?と思ったものですが、

「ああ、そういえば僕自身も父になったんだ」と思い出しました。

去年の11月から父になったのでした。

思えば一月前の母の日にも、妻のことを母として見ることができていませんでした。


人の親となった自覚が足りないんじゃないの?
そう言われると辛いところがありますが、多分これはそんな話じゃないです。

父というのは私にとって他人を指す言葉でした。しかし子供という他者ができたことで父になりました。(親としての役割とかの話は抜きにして、続柄的な意味です)

同じくこの子が生まれたことで、私の親はおじいちゃん、おばあちゃんになりました。妻の妹は叔母になりました。

何が言いたいかというと、自分という存在は他者との関係で成り立っているんだなという話です。

そしてその多種多様な他者との関わりの集合が自分です。

自分を分析してみる

自分という存在を考えてみました。

父、住職夫妻の子、妻の夫、妻の妹の義兄、天台宗僧侶、Youtuberもどき、ギターが好き、メタラー、

これら要素はいずれも自分の事を説明する言葉ではありますが自分自身ではありません。でもこれらが集合すると私になります。

森というものは、たくさんの木から成り立っていますが、木は森ではありません。木がたくさん集まって、それを森と呼んでいるだけです。

確固たる自分自身というものはないのです。
そして子供ができたから父になるように、環境によって自分自身は変わります。僧侶だと認められるから僧侶であるというように、他人の価値観によって自分の存在が成り立っている場合もあります。

これを諸法無我といい、単体で存在する変わらない存在はなく、全ての存在が他のものと寄り合って存在するということです。

そう考えると不安定なものばかりなんですね、だから諸行無常なのです。

こだわらない安定性

なんだか仏教って暗いな、そんな風に思っていませんか?

それは違います。

確固たる自分自身というものが無く、全てが関係性の上で成立している状態は不安定といえば不安定ですが、だけどむしろ一つが欠けても決して全てが壊れない、そんな安定性を持っている気がします。

私が仮に僧侶でなくなったとしても、私という人間はいなくなりません。
結婚して夫になる前も私は私でした。
父になる前も私は私でした。

しかし僧侶であることも、父であることも、私を構成する大事な要素です。

大事なのは、決してどれかが欠けても自分がなくなるわけではないことです。

私も含め、何か自分とはこういうものだ!というのを求めがちです。

私も「ギターの速弾きこそ自分という存在だ!」と思っていた時期がありました。

それはそれでよかったのですが、実際にはバンドをする友人がいて、ギターも楽しんで、勉強もして。そんな様々な要素で自分が形作られていたのだと思います。

そんな過去も含めて今の自分。新たな父という要素が加わり、諸行無常、僧侶として頑張っています。


今日は自分はいくつもの要素が絡み合ってできてる、何か1つにこだわることないんだ、という話、諸行無常・諸法無我というお話でした。

関連記事