スピーチの心の支え 和顔施
喋ることって難しいですね。
皆さんは積極的に話す方ですか、聞いている方ですか?
複数人での会話は、多くの場合よく話す人が会話のペースを握ることになりますね。
その人がトイレに立ったりすると、「え?何を喋ろう」という空気になり、少し緊張が走ります(私だけでしょうか?)
二人で話す時には、同じ割合で話す場合もあるでしょうが、その席その席でどちらかが多く話して、もう一人は聴いているのではないでしょうか。
またこちらが一方的に話さなくてはならない場合も少なからずありますよね。
スピーチ、授業の発表、プレゼンなど。
今日はそんな、一方が発信していくケースで私の心の支えとなり、感謝しないといけないなと思った事をシェアしていきます。
目次
話させてもらうという事
お坊さんってほぼ一方通行で話すことを求められる事が多いです。法話・説法・説教っていうとそんなイメージがありますよね?
最近では双方向の対談的な法話や漫才法話もありますが、やはり主流はお坊さんが話す事を聞いてもらう、というスタイルです。
かくいう私も法話・説法としてお話しする機会はそれなりにあります。法事の席、お寺の年中行事、他のお寺の行事でなど…
何度も経験していくと、
「今回はめちゃくちゃ上手く話せたな」という時と、「今回はあんまりだった…」という時があります。
あの時は上手くいったのに、今日は何がダメだったのかな、と原因を探ります。
声があまり出せていなかったから雰囲気が暗かったかな、とか。あれを話すのを忘れていたから内容が伝わらなかったのかな、とか。
それらは間違いではない、と思います。
しかし同時に傲慢だった所もあるかもしれない、と今は感じています。
何故なら言葉を交わすことだけがコミュニケーションではないから。
「自分が一方的に話している」と思っていたことが間違いだったのです。
上手く話せる時には、私が話している最中、聞いてるよという姿勢を見せてくれる人がいたんですよね。こちらをじっと見てくださったり、相槌をうったり。
そんな人に支えられ、「喋らせて」もらっていたんです。
でもこれは相当特殊なことです。普通は反応なんてしてもらえません。
いつでも温かい反応をもらえるとしたら、やっぱり内容や話術がある場合。
あるいは、信頼がある場合もあります。
この信頼は、話し手が個人的に積み重ねたものかもしれないし、話し手が社会的に信頼のある人かもしれない。また劇場やお寺といった舞台が信頼を担保しているのかもしれない。
私が上手く話せたと思った時も、お寺の笠を着させてもらっていたのかもしれません。
何にせよ、私は、私の話に反応をしてくださる方に、話しやすい環境を提供してもらっていたんです。
ですから私は、わざわざ私の話に頷くなどのアクションをしてくださるのを施しだと思っています。
和顔施
施しを仏教では布施(ふせ)と言います。
布施はお寺に渡すお礼の金銭のイメージが強いと思いますが、本来は、施しを布(し)くと読み、施しを周りに広げていくという意味の言葉です。
布施の一つに和やかな表情というものがあり、和顔施(わげんせ)といいます。
表情は時に相手への贈り物になります。
笑顔はその代表かもしれません。
しかし笑顔だけではなく、真剣な表情に勇気をもらうこともありますし、悲しい顔も時には相手の気持ちを和らげます。
時と場合によりますが、表情は日常に密接した布施なのです。
話を戻すと、「私はあなたの話を聞いていますよ!」という顔も話し手に安心を与えるわけですから和顔施なのです。
法施を行なうと同時に和顔施をいただいていたのです。
(私が仏教の教えを話すのは、恐縮ながら法施と言いまして、教えを布施するというものです。)
つまり、一方が発信していくケースにおいても、実際は話し手の一方的な発信ではなく、聞き手の反応があってこそのことで、やはり双方向のコミュニケーションなんですね。
とはいえ真剣に聞いているけれど反応には出ない方も多くいらっしゃいます。それを知るのも話し手には重要な事かもしれません。
聞き手が与えてくれる施しに気付けば、話す際の心の支えになるかもしれません。
話している時には聞いてもらっていることに感謝して、それぞれの立場でコミュニケーションを楽しめると良いですね。